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榛名無名雑感
第8号 線を引いて読む
小さな花が咲きました
小さな花が咲きました


 もう何年も前になりますが、私のよく知っているおばあちゃんが亡くなりました。なくなった後で、そのおばあちゃんが使用していた聖書を見せてもらいました。 ずいぶん使い古した聖書でした。 中を見てさらに驚きました。 黒や赤の鉛筆で行間にびっしりと線が引いてあるのです。 自分の心にしみた聖書の箇所には何重にも線が重なっていました。 聖書がボロボロになるまで、線を引いて読んだ生涯でした

 このおばあちゃんは、晩年、これといってしなければならない仕事があるわけでもなく、また体も弱まり、家事もだんだんとできなくなっていました。しかし、「線を引く」ことはできました。「線を引いて」聖書を読むことが、おばあちゃんの晩年の唯一の仕事でした。・・・言いようのない感銘を覚えました。線を引きながら、確実な生涯を刻んでおられたように思いました。

 新生会に入居して、やはり、マーカーで線を引き、何度も何度も線を引き、言葉を自分のものにしておられる、90歳に近い紳士に出会いました。 その方からお借りした書物や新聞の切り抜きには、決まって、言葉に格闘した痕跡の線が、びっしりと引いてありました。

 私も、おばあちゃんや、その新生会の紳士を範として、言葉に線を引きながら、日々を、確実に、喜びをもって刻んでいきたいと、あらためて、強く、決意したのでした

    2013年3月31日
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第7号 心の掃除をしながら
花
花を咲かせて、生きる


 私たち人間にとって、もっとも困難な問題は、人間関係です。生きている限り、家庭でも、職場でも、子供たちのクラスにおいてでさえ、一緒に生きている者達との関係が、いつでも問題になります。

 人間関係の中心は「愛」でしょう。 真に愛することができなければ、真に生きていることには、ならないのです。 しかし、大人も、子供も、時にはその「愛」の反対の「憎しみ」が連鎖して、そこから抜け出せないこともしばしばです。

 私がまだクラス担任をしていた頃のことです。 そのクラスはどうも落ち着きがありませんでした。トラブルを起こす生徒が何人かいて、当然ながら友達同士の軋轢もしばしば起きたものです。

 人間は、人を憎めば憎むほど、自分自身の心の中に憎しみが募り、相手よりも自分の方が不幸になってしまうものでしょう。 いじめる側こそ、不幸を常に心に溜め込んでいくことが、私は、いつも、気になったものです。

 子供だけではなく、私たち大人にとっても、同じです。・・・先日、定年退職間近かの友人が、私に、「僕は定年を前に考えていることがある。 それは、人を憎まないで退職に至ることが、価値のある教師人生の締めくくりになる、ということだ。」と。… 彼は、教師生活の中で、強い信念を持つがゆえに、いろいろと他人から、非難を受け、多くの教員仲間を敵に回してしまった経験を、持っていました。 その彼が、私に、「お互い、退職後の第二の人生においても、どんな厄難にあっても、人を憎まない人生を送っていくことを心がけようよ。」と、言ってくれたのでした。

 子供でも大人でも、自分の心の掃除をしながら、愛を中心にすえて、歩むことが、残された人生、とても大切なことのように思える、今日このごろです。 
      
         2013年3月30日
第6号 息子よ、人生は舗装された道だけではない

自室のベランダに
 咲いた花

私は、停年まで数年を残して、退職した者です。

 一九九五年度から、私は教頭を四年、校長を九年、その任に当たらせていただきました。折からの「立教の改革」時期を、学院の一員として働かせていただきました。きつい仕事でしたが、やりがいのある、楽しい生活でした。
新校舎の建設、池袋中高校の創設と続き、歴史の転換期に、教頭・校長の任に当たることができたことは、身に余る光栄でした。

 さて、校長も三期目に入った年の夏、私は八月に、持病の不整脈(心房細動)を治療するために、除細動手術という電気ショックを胸に受けました。全身麻酔をして二00Vの電流を胸に流すものです。

もう七月の最初から、この心房細動の発作は胸に起こっていました。夏休みになってから手術を受けようと、胸の鼓動がでたらめに打つまま、我慢しながら、学校の仕事を続けていたのです。

実は九年前にもこの除細動手術を受け、術後、普通の生活を続けていました。今回も同じように十分間ほどの手術を無事に終わり、九月から元気に学校に出ることができるものと、思っていたのです。

 しかし、今回はまるで異なりました。退院してみると、外は猛暑で、二00Vのダメージを受けた体は、あまりの暑さに耐えられませんでした。食事を見ただけで、心房細動が再発しそうになるのです。「胸の鼓動がでたらめになりそうだ!」・・・その恐怖に、食事を受け付けなくなりました。

家内は私に少しでも食事を口に入れさせようとして、介護にとても苦労しました。出口の見えない日々でした。体重は一気に十キロ近く減っていきました。

年齢的にも九年前とは違い、初めて「加齢」という言葉を実感しました。「以前とは違う!」・・・カーテンを締め切り、外の暑さを避け、ごろごろと七転八倒しながら、八月九月を過ごしたのです。病は気から、と思いつつ、体力任せに回復していた今までとは違う、「還暦」の体力の無さを認識させられたのでした。

病気をして一年近く、休職して家で静養していなさいと医者に命じられ、家にいました。 心臓の脈がでたらめになる不整脈の再発を恐れながら、「静養」していたのですが、何もしないのでは、かえって「静養」になりません。ただ一つ、私にできるのは、「歩く」ことでした。 歩くといっても最初は五分ぐらい、次の日は十分ぐらいの散歩程度の「ミニ・ウオーキング」がやっとでした。左胸をかばいながらの不自然さで、ほとんど毎日、短い距離でもよいので、「歩く」ことをしていました。

 歩いている途中で、脈が突然飛び、「いつになったら心臓に自信を持って生活できるのか!」と、悲しくなってしまう時も、多々ありました。社会生活への自信が出てきません。今でも左胸に不快感があり、不整脈の自覚症状への怯えが消えません。怯えると余計に病気はくっついてくるもののようです。ですから、開き直って行動する!つまり「歩く」ことが私の未来へ続く道と信じて、1日に何回も分けて、歩いていました。歩くことだけが、仕事でした。

 その歩いた歩数を、私は、毎日ノートに記録しておいたのですが、ある日、家内が、私の歩いた歩数を合計し、距離に換算してくれました。 前年の十月から五ヶ月間で、約五00キロ、塵も積もれば山となる、「京都まで行ったのと同じだよ!」と、辛かった日々を思い起こしつつ、二人で、「歩くことしかなかった日々」を感謝したのでした。

 〈息子よ、人生は舗装された道だけではない〉・・・この言葉は、かつてトヨタ自動車が、四輪駆動車「トヨタランドクルーザー」の新聞広告に、掲載したコピーだそうです。読売新聞の「編集手帳」で取り上げられているのを読みました。

 これは、単なる車の広告の言葉ですが、味わいのある言葉だと思いました。・・・たしかに、人生は舗装された道だけではない。舗装されていない悪路も走れる四輪駆動車のような力が、必要であるに違いありません。
 私は、立教池袋という学校は、四輪駆動ならず、全員駆動で、どんな困難な道でも、逞しく走り続けていく・・・そういう学校であることを、確信しているのです。

 二00九年三月、私は、感謝を持って、日本一の学校を退職いたしました。

そして、そのころから、新生会を拠点にした人生を、考え始めたのでした。

    2013年3月29日
第5号 弱さを誇る
 「大事をなそうとして力を与えてほしいと神に求めたのに、慎み深く従順であるようにと弱さを授かった」・・・これはニューヨークにあるリハビリセンター研究会の壁に書かれた患者さんの詩だそうです。

 「弱さを授かった」とは、簡単には言えない言葉だと思いました。謙虚で強い言葉だと感服しました。

 私の知人にも、手足が動かず、必死にリハビリを受けている人がいます。本人にとっては、健康な人をうらやましく思うのかもしれません。しかし、リハビリの懸命な姿が人の心を揺さぶります。リハビリの姿そのものが、自分のためだけでなく、他人をも生かしている気がするのです。不自由で「弱い」けれども、その生き様を「弱い」と、とても私達には言えないことのような気がします。

 私達は、「強い人」からも勇気づけられることが多いのですが、「弱い人」が秘める本当の強さには、思わず、真実に出会ったように思えるのです。

 私の居る、社会福祉法人新生会にも、「本当に強い人」があふれています。



         私の恵みはあなたに対して十分である。私の力は弱いところに
         完全にあらわれる。
         自分の弱さ以外には誇ることをすまい。(聖書)

第4号 新生会に、どうして? 全国から入居者が。
梅
榛名にも春がやってきました。
今は梅が満開。桜も開花。


 私が入居を決めようとした頃、開発センターの廊下で、Kさんという一人の紳士にお会いしました。
 Kさんは、次のようなことを、きらきらとした目で、話してくださいました。

 「新生会は、安心ですよ。年を取って介護が必要になれば、別の館に移してくださるし、人生の最期まで、お世話をしてくださいます。そういう老人ホームはそうあるものではありません。キリスト教の教会もあり、病院もあります。自分は、仏教ですが、等しく大切にしてくださいます。ここは職員がすばらしいと同時に、理念がしっかりしています。理念がしっかりしていることが、老人ホームには特に必要です。ですから、全国から入居者が集まってくるのでしょう。
 みなさんは、ここを拠点にして、自由に、国内・海外に旅行したり、趣味に興じたり、前向きに、安心して、人生を積み重ねていらっしゃいますよ。・・・」

 私は、「希望」を覚え、ここを選んだことが間違っていなかったことを、改めて、確信したのでした。
  2013年3月26日


               
                 新生会が持つ 誓いの言葉
   
           あなたが、あなたの老年期の住居を、新生会のホームに
           定めてくださった御縁を感謝し、あなたが去ることを希望されない
           かぎり、最後までお世話させていただきます。
                      
                                     
                                        






第3号 「ありがとう」をたくさん言われる人…新生会の真の魅力2
 だいぶん以前のことになりますが、テレビのあるトークショーで「家族のあり方について」話し合っているのをたまたま見ました。その中で、視聴者の若いお母さんからの微笑ましい手紙が紹介されていました。

「私の4歳になる娘が、こんなことを言いました。・・・このおうちで一番偉い人はだれ?パパでもママでもなくわたしでしょう?・・・と言いはるのです。違うよと、言いますと、駄々をこねて、私が一番偉いんだ!と言い、泣き出すのです。4歳ぐらいの子というのは、自分中心で、すべての愛情が自分に集中していないと気がすまない年頃のようです。そこで、私は娘にこう言いました。・・・このおうちで一番偉いのは、パパですよ。なぜなら、パパは家でも外でも、多くの人からたくさんの「ありがとう」を言われている人だから・・・偉い人というのはね、「ありがとう」とたくさん言われる人なんだよ…と教えました。」というような内容の手紙でした。

 どのようなお仕事をしているお父さんかわかりませんが、地位が高いとかお金を稼いでくるから偉いという観点ではなく、ありがとうとたくさん言われるお父さんなのだということを、お母さんは娘に示したのでした。・・・楽しい、軽いトークショーでしたが、一瞬、出演のみなさんは真顔になり、いいものに触れたやさしい顔になったのでした。・・・ 家族の中で、ありがとうという言葉が中心に据えられている・・・「本当の幸せ」というものを得ている家族のように思ったのでした。

 私たちの新生会ではどうでしょうか。一番偉い人は、やはり「ありがとう」を言われている職員の方々、介護に携わっておられるケアワーカーの方々なのかもしれません。

 感謝とか、信頼とか、愛とか、正義とかの概念が、この新生会の中心に据えられていると、強く思っています。

                             2013年3月23日
第2号 社会福祉法人新生会の真の魅力
 新生会の高齢者マンションに入居して(契約をしたのは、3年前。常住したのは約1年前)、ある奥様が職員にこのような話をされたことを聞きました。

「私は結婚して以来、母親の介護を充分にできず、いつも申し訳ない気持ちでいました。しかも私は主人の仕事の都合で海外赴任となってしまいました。やむをえずの気持ちをいつも抱きながら、母を新生会にお預けしました。子として母の介護を支えられない気持ちは、日に日に増すばかりでした。
 
 やがて、母の死の知らせが入りました。私たちは、高崎郊外にある新生会に葬儀のために帰ってきました。
 
 葬儀中、私は不思議な空気にさらされました。母を介護してくださっていた方々の優しい目。人の一生涯、最期まで世話を成し遂げたすがすがしいお顔。それにきれいな空気と自然。
 
 私は、…ああ、自分は何もできなかったが、自分以上に、母はこのかたがたに介護され、ここを終の棲家としたことは、幸せだったのだ。・・・母に携わってくださってくださったお一人お一人は、私に、きれいな、感謝の気持ちをわかせてくださったのです。
 
 自分も晩年、できるならここに入れていただこう、そう心から思いました。」と。

 新生会の魅力は、いろいろあるでしょうが、この奥様が抱かれた心が、入居者にも、また、ご両親を入居させているご家族にも、等しくあるのではないでしょうか。
                       2013年3月22日
第1号 小宮山昭一立教学院前理事長を悼む
私は、昨秋より群馬の榛名新生会に居を移しました。その経緯はのちほどお伝えすることとして、先日、私の校長時代に理事長をされていた小宮山立教学院前理事長が亡くなられました。3月2日に立教学院葬が執り行われ、わたしは、その茶話会で、思い出とともに、お悔やみの言葉を述べさせていただきました。
私の「榛名無名雑感」第1号として、ぜひそのスピーチを掲載したい衝動にかられました。
         ・・・・・・・・・・・・・・・

小宮山前理事長がお亡くなりになってから、数週間の時が過ぎました。
 実に、小宮山前理事長は、心の広い、優しい、大きな方でありました。理事長は、人を愛し、可愛がりながら、そして「人を育てる人」でありました。
 私が立教中学校の教頭をしているころに理事長になられ、私の校長時代を通じて、実に可愛がっていただいたなあと、感無量になります。

思い出は尽きることはありませんが、2~3のことを強く思い起こしております。

もう15年以上前、小宮山前理事長が、理事会の意向をもって、立教中学校の教職員会議に来られたことがありました。中学校をグランド側に移し、同時に、池袋と、新座に中高をつくるという立教の総合発展計画でした。

理事長は一人で教職員会議に臨まれました。
教職員の中には、賛成派もありましたが、多くのものが、この改革に不安を抱いており、案の定、理事長に改革の不安や、疑念を、次から次に投げかけたのです。理事長は一つ一つ揺るぎのない説明で、答えられました。
ある教師が、中学が高校を作って、応募者が減り先細りしたらと思うと不安になるというような発言をした時、小宮山理事長は、はじめて声を荒げてこういわれました。「そんなことはありません。立教中学校は、立教の中でもっとも歴史の古い学校です。その学校の教員がそんな弱腰でいてもらっては困る。」と。
・・・強く私たちを励まし、理事会が一体となって教職員と共にあることを、説かれたのです。

 会が終わり、理事長が、退席なさる時、驚くべきことが起きました。・・・教職員の賛成者も反対者も全員が一斉に席を立ち全員の拍手で、理事長をお送りしたのです。
 わたしは、そのとき、司会をしていたのですが、理事長の人物の大きさを、全教職員が感じ取ったことに、思わず、一人で涙したのでした。

 あくる日、私は、理事長室に呼び出されました。理事長は「みんなが拍手をしてくれた。うれしかった」と、私ごときものに礼を述べてくださったのです。
その時から、立教学院の小学校から、大学まで一体となった大改革が始まりました。

「人の心をつかむ」、器量の大きなお方でした。

もう一つ、小宮山前理事長のお人柄を伺わせることがあります。立教の改革を進めながら、実は、多くの方が、その間に亡くなりました。一つ一つの葬儀に私も一緒に参列することが多かったのですが、参列しながら、私は驚くのです。小宮山理事長は、いつも葬儀の最中に、嗚咽して泣かれるのです。改革の同志を失った悲しみか、故人を思っての悲しみか、・・・小宮山前理事長は「泣く人」でもありました。

また、理事長在任中、何度も、任期が来るたびに、「もう理事長を辞めさせてくれ」というのが、口癖でした。そのたびに、私たちは、総長も一体となって引き止めさせていただきました。

ご家庭ご家族の方には本当に申し訳のないことでした。
小宮山前理事長は、奥様をはじめご家族を心から愛する「家族愛の人」であったことを、私たちは、もっと知るべきだった思います。

今は、小宮山理事長は、天にあって、立教のこと、ご家族のこと、そして、私たち一人ひとりのことを祈り、見守ってくださっている「見守りの人」であらることを、私は本気で、信じています。

感謝をもって追悼の言葉といたします。   2013・3・2
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